春木団地の前に、元気なおばあちゃんが経営するお好み焼き屋さんがありました。
小さいお店でしたが、駄菓子屋さんでもあったので、いつも小銭をもった子供たちで
店内は一杯でした。
おばあちゃんが焼くお好み焼きは本当に美味しく、親からもらうお小遣いはほぼお好み焼きに使っていました。「ばあちゃん、いつもんちょ!」(今思えば、誠に洒落臭いガキ)。
当時は、100円玉をもってお好み焼きを食べても、残ったお金でお菓子を買った記憶があり
本当に安かったんだなあ、と今書いていて改めて感心します。
先ほど、母と春木団地時代の思い出話をしていました。その親子の会話の一部、
母曰く、
「〇〇子(姉)は、本当によくできた子だったよ」、
「そろばんは短期間で2級に合格して、同じころに通っていた友達の中で、一番早かった
んだよ」、
「あんたは、よくさぼっていたけど、何とか3級までは合格したんだったかね、まぐれだ
ね、たぶん」、
私曰く、
「母さん、一言多い、本人を前に配慮がない」。
春木小学校時代の3年生から4年生までの2年間は、私の寿命を少なからず確実に縮めたと
心から思っています、いや間違いありません。私の小・中・高・大時代で一番学校に行きたくない2年間でした。まあ原因は私自身にあったのですが。
とにかく、担任の先生が滅茶苦茶怖かったんです。よく平手打ちを食らい、耳を引っ張られ、教室の外で立たされていました。バケツを持つ、といった罰はなかったですが^^;
今でも先生の名前はしっかりと覚えています、「角〇〇代先生」、本当に怖かったなあ。
名前は可愛いのですが・・・(そこまで)。とにかく怒った顔は今も鮮明に覚えています。
繰り返しとなりますが、原因は私自身にあったのです。
角野先生は、超まじめな方で、決して横着な不良生徒を決して許さなかったのです。
なので、普通に学校の規律を当たり前に守り、よく学び、よく遊ぶ生徒にとっては、ごく普通の先生で、努力しても努力の甲斐なく、出来の悪い生徒に対しては、優しく接してくれる暖かい先生でした。
角野先生の他の生徒への優しい笑顔は、当時の私には一度も無かったような。
いつも遠くから、「ええなあ、みんなは・・・ほんまに」と眺めていた自分を思い出した。
では、そんな先生が、なぜ私には厳しかったのかというと、
私は宿題をよく忘れました。更に、教科書もよく忘れるなど、私は当たり前のことを当たり前にやらない不良生徒だったので、母もよく学校に呼び出され、場所を問わず、教室の前で、しかも他の生徒がいる前で、授業を中断し、見せしめ(公開処刑)のように、親子一緒に怒られていました。
そんな角野先生と、よりによって2年もご指導いただくこととなるとは・・・。
当時の私は完全に委縮して、精神的に変になっていました。とにかく学校へ行くのが嫌で、嫌で、よく学校をずる休みしたのを覚えています。
今、改めて当時を思い出すと、怖かった角野先生には、本当に大変お世話になっていただんだと反省しています。
今の時代なら、私のような不良生徒など、無視されていてもおかしくなかったのに、よくぞあそこまで叱ってくださった(マジで怖かったけど)。今、どうされているやら・・・。
改めまして、心より、ありがとうございました。
大阪第2のふるさと岸和田市春木町での生活は、小学校5年半ばまででした。
その後は、大阪第3のふるさとへ引っ越すこととなりますが、これが私の人付き合いを苦手とするきっかけとなったように、今も思っています。
次回は、いよいよその大阪第3のふるさとの思い出を綴ります。