athome-hidenoriのブログ

自分の人生のありのまま綴り、自分が育ったふるさとへの思いを綴り、今の自分の思いを素直に綴ります。

大阪第2のふるさと②

春木団地の前に、元気なおばあちゃんが経営するお好み焼き屋さんがありました。
小さいお店でしたが、駄菓子屋さんでもあったので、いつも小銭をもった子供たちで
店内は一杯でした。

おばあちゃんが焼くお好み焼きは本当に美味しく、親からもらうお小遣いはほぼお好み焼きに使っていました。「ばあちゃん、いつもんちょ!」(今思えば、誠に洒落臭いガキ)。
当時は、100円玉をもってお好み焼きを食べても、残ったお金でお菓子を買った記憶があり
本当に安かったんだなあ、と今書いていて改めて感心します。


先ほど、母と春木団地時代の思い出話をしていました。その親子の会話の一部、


 母曰く、
 「〇〇子(姉)は、本当によくできた子だったよ」、
 「そろばんは短期間で2級に合格して、同じころに通っていた友達の中で、一番早かった  
  んだよ」、
 「あんたは、よくさぼっていたけど、何とか3級までは合格したんだったかね、まぐれだ
  ね、たぶん」、
 私曰く、
 「母さん、一言多い、本人を前に配慮がない」。


春木小学校時代の3年生から4年生までの2年間は、私の寿命を少なからず確実に縮めたと
心から思っています、いや間違いありません。私の小・中・高・大時代で一番学校に行きたくない2年間でした。まあ原因は私自身にあったのですが。


とにかく、担任の先生が滅茶苦茶怖かったんです。よく平手打ちを食らい、耳を引っ張られ、教室の外で立たされていました。バケツを持つ、といった罰はなかったですが^^;
今でも先生の名前はしっかりと覚えています、「角〇〇代先生」、本当に怖かったなあ。
名前は可愛いのですが・・・(そこまで)。とにかく怒った顔は今も鮮明に覚えています。
繰り返しとなりますが、原因は私自身にあったのです。


角野先生は、超まじめな方で、決して横着な不良生徒を決して許さなかったのです。
なので、普通に学校の規律を当たり前に守り、よく学び、よく遊ぶ生徒にとっては、ごく普通の先生で、努力しても努力の甲斐なく、出来の悪い生徒に対しては、優しく接してくれる暖かい先生でした。


角野先生の他の生徒への優しい笑顔は、当時の私には一度も無かったような。
いつも遠くから、「ええなあ、みんなは・・・ほんまに」と眺めていた自分を思い出した。


では、そんな先生が、なぜ私には厳しかったのかというと、
私は宿題をよく忘れました。更に、教科書もよく忘れるなど、私は当たり前のことを当たり前にやらない不良生徒だったので、母もよく学校に呼び出され、場所を問わず、教室の前で、しかも他の生徒がいる前で、授業を中断し、見せしめ(公開処刑)のように、親子一緒に怒られていました。


そんな角野先生と、よりによって2年もご指導いただくこととなるとは・・・。
当時の私は完全に委縮して、精神的に変になっていました。とにかく学校へ行くのが嫌で、嫌で、よく学校をずる休みしたのを覚えています。


今、改めて当時を思い出すと、怖かった角野先生には、本当に大変お世話になっていただんだと反省しています。
今の時代なら、私のような不良生徒など、無視されていてもおかしくなかったのに、よくぞあそこまで叱ってくださった(マジで怖かったけど)。今、どうされているやら・・・。
改めまして、心より、ありがとうございました


大阪第2のふるさと岸和田市春木町での生活は、小学校5年半ばまででした。
その後は、大阪第3のふるさとへ引っ越すこととなりますが、これが私の人付き合いを苦手とするきっかけとなったように、今も思っています。


次回は、いよいよその大阪第3のふるさとの思い出を綴ります。

大阪第2のふるさと

大阪で、最初の過ごした泉佐野市をあとにして、
大阪第2のふるさと 岸和田市へ引っ越ししました。理由は父の勤め先からはやや遠くなるのですが、家族の生活環境を考慮しての引っ越しだったとのことでした。




場所は春木町で、春木団地というところで、5建てのアパートがいくつも並ぶ団地でした。
移り住んだ頃、何棟もある同じアパートが並んでいるので、幼い私はよく迷子になりました。ただ、姉はいつも迷わず家に帰っていましたので、姉は普通に立派でした。


団地の中には、遊ぶための広場があり、団地の横にはショッピングセンターもあり、慣れれば、家族が生活するには全く不自由は無かったように思います。
幼心にも、春木町はとにかくエネルギッシュな地域だったと、今も記憶に残っています。
中でも、だんじり祭がはじまると、街の賑わいは凄く、人、人、人の人だらけで、祭りが始まると、その活気に気後れしていた私はそこには参加できず、いつも遠くで眺めているだけでした。


通った学校は春木小学校で、当時は1学年に5クラスくらいあったように記憶しています。私は結果的には、春木小学校に5年生の半ばまで通っていました。
春木町時代は、友達もそれなりにできました。


その友達と団地の広場で毎日のようにハンドベースボールをして、日が暮れるまで遊んでいました。
とにかく野球少年だった私でしたので、友達仲間からリトルリーグに誘われたのを覚えていますが、母がそれを決して許しませんでした。その母は布教活動に熱心である一方で、子供への教育にも熱心でした。


布教活動に熱心な母と、仕事一筋で真面目な父とはよく喧嘩をしていました。
父は仕事で朝から晩まで、母は布教活動で朝から晩まで。
なので、家のことは、悲惨な状況でした。


家のことは食事も結果的に子供任せとなっていました。子供にとっては、ある意味自由なのですが、世間から見れば、ほったらかし状態でした。
今でも鮮明に覚えているのは、鍋にウジ虫がわいていたのです。一見、米のように見えますが、よく見ると動くのです、ウジ虫だったのです。この光景は今も鮮明に残っています。
そんな母ですが、教育には熱心で、姉と私には、いくつかの塾に通わせていました。
4歳下の弟はというと、まだ幼いこともあり、母の背中におぶわされ、一緒に布教活動(?)していました。


その塾はといいますと、習字とそろばんでした。
姉は真面目でしたので、ちゃんと通っていましたので、確かに今も字が綺麗で、頭も良いで
す。私はというと、実はほとんど通わず、通ったふりをして、広場で友達と汗だくになって真剣に遊んでいたこともあり、私の体型は野球人としては恥ずかしくないのですが、字と頭の出来は・・・。


たまに、母が布教活動から早く帰ってきた時に、広場で夢中になって遊んでいる私のところに駆け寄ってきて、間髪入れずに「塾は?」と問われ、瞬間的に「今日は休みだよ」と、非常にわかりやすく、バレやすい嘘をついた私を連れ帰り、家でこっぴどく叱られたのを今もよく覚えています。


懲りずにその後も、ハンドベースボールに夢中だった私は塾へ行かないことが多く、親の期待を裏切った私は実に親不孝者でした。
一方、真面目で頭の良い姉は私にとっては先生のような存在でもあり、頼もしく大好きな姉でした。その大好きな姉には、辛い不幸な将来が待っていたとは、その頃の姉にも私にも想像もつきませんでした。


春木町での5年間は、他にもいろいろな思い出が残っており、次回もその思い出を綴ります。

野間に生まれ、まもなく大阪へ

私は1964年10月に愛知県美浜町野間で長男として生まれました。
その私には、1つ上の姉と、4つ下の弟がいて、3人兄弟です。

野間で生まれてまもなく、父の転勤で大阪で住むことになりました。
初めての大阪暮らしは、泉佐野市からのスタートでした。


まだその頃の私は幼稚園児でしたので、良く覚えていませんが、
確か、幼稚園の名前は「天使幼稚園」だったと記憶しています。


母の話では、私に友達が居なかったようで、よく神父さんが遊んでくれていたと
言っていました。その神父さんは外国人であった為、メチャクチャ大きい方だったと、
幼い頃の記憶として残っています。
確か写真もあったのですが、今はどこへしまったのか、わかりません。


当時の母は今問題となっている某宗教団体とは違いますが、ある新興宗教団体の布教活動に非常に熱心で、曜日に関係なく毎日のように出かけ、留守をすることが当たり前でした。


幼稚園での思い出がもう1つ。とても辛い思い出で、今も心の傷として残っています。
それは、幼稚園の運動会での出来事でした。
母は子供の幼稚園の運動会であっても、布教活動を優先していましたので、運動会には
来ませんでした。


運動会のメニューには、園児が円になって、その円に親が入り、親と園児がダンスをする
時間がありました。これが私の一番嫌な時間でした。
その時の私はいつも円となった最初の位置から動けず、戸惑いながら立って居ました。
当然、移動してくる親子を泣きながら避けている本当に惨めな経験でした。


何回かそうした辛い経験をしましたが、1回だけ、どこかの見知らぬ方が見かねたのか
手をつないで一緒に踊ってくれましたが、とても恥ずかしく、更に辛い思い出です。


なので、
幼稚園時代の父兄が関係するイベントは怖くて、辛いものだったので、休みたかった
のですが、それを母は許しませんでした。実に可哀想な私でした。


なので、
新興宗教団体の話題が出ると、穏やかにはなれません。


当時住んでいたアパートの辺りは田んぼや畑で何も無かったので、よくトノサマガエル
を捕まえて遊んでいました。
4歳下の弟はその頃生まれ、その弟の口に哺乳瓶を当てて、長男として一応弟の面倒を
見ていたようですが、どこまで役に立っていたのか、全く自慢にもなりません。


ある日のこと、毎日のように布教活動から帰ってきた母がメチャクチャに怒った光景を
今も鮮明に覚えています。
恐れく、生まれたての4歳の弟の面倒を、姉も私も忘れていたのでは。。。
母はそんな姉と私に対し、怒り狂って棒を振り回し、メチャクチャに叩きにきたのです。
私は姉の後ろで逃げ回っていたので、その分姉が犠牲になったのを鮮明に記憶しています。


今気づいたのですが、なぜかそのころ1つ上の姉とのその頃の思い出がありません。
決して中が悪かったのではないのですが。
ただ、姉の性格は大人しく、頭が良かったのを覚えています。
その姉はあまり家を出なかったので、やはり一緒に遊んだ記憶はないのは、そのせいかも。



初めての大阪 泉佐野市での生活は、私が幼稚園を卒園するまでの2年から3年までの
短い期間でしたが、良い思い出はほとんど無かったように思います。


次回は、次の大阪の地での生活を。