athome-hidenoriのブログ

自分の人生のありのまま綴り、自分が育ったふるさとへの思いを綴り、今の自分の思いを素直に綴ります。

野間に生まれ、まもなく大阪へ

私は1964年10月に愛知県美浜町野間で長男として生まれました。
その私には、1つ上の姉と、4つ下の弟がいて、3人兄弟です。

野間で生まれてまもなく、父の転勤で大阪で住むことになりました。
初めての大阪暮らしは、泉佐野市からのスタートでした。


まだその頃の私は幼稚園児でしたので、良く覚えていませんが、
確か、幼稚園の名前は「天使幼稚園」だったと記憶しています。


母の話では、私に友達が居なかったようで、よく神父さんが遊んでくれていたと
言っていました。その神父さんは外国人であった為、メチャクチャ大きい方だったと、
幼い頃の記憶として残っています。
確か写真もあったのですが、今はどこへしまったのか、わかりません。


当時の母は今問題となっている某宗教団体とは違いますが、ある新興宗教団体の布教活動に非常に熱心で、曜日に関係なく毎日のように出かけ、留守をすることが当たり前でした。


幼稚園での思い出がもう1つ。とても辛い思い出で、今も心の傷として残っています。
それは、幼稚園の運動会での出来事でした。
母は子供の幼稚園の運動会であっても、布教活動を優先していましたので、運動会には
来ませんでした。


運動会のメニューには、園児が円になって、その円に親が入り、親と園児がダンスをする
時間がありました。これが私の一番嫌な時間でした。
その時の私はいつも円となった最初の位置から動けず、戸惑いながら立って居ました。
当然、移動してくる親子を泣きながら避けている本当に惨めな経験でした。


何回かそうした辛い経験をしましたが、1回だけ、どこかの見知らぬ方が見かねたのか
手をつないで一緒に踊ってくれましたが、とても恥ずかしく、更に辛い思い出です。


なので、
幼稚園時代の父兄が関係するイベントは怖くて、辛いものだったので、休みたかった
のですが、それを母は許しませんでした。実に可哀想な私でした。


なので、
新興宗教団体の話題が出ると、穏やかにはなれません。


当時住んでいたアパートの辺りは田んぼや畑で何も無かったので、よくトノサマガエル
を捕まえて遊んでいました。
4歳下の弟はその頃生まれ、その弟の口に哺乳瓶を当てて、長男として一応弟の面倒を
見ていたようですが、どこまで役に立っていたのか、全く自慢にもなりません。


ある日のこと、毎日のように布教活動から帰ってきた母がメチャクチャに怒った光景を
今も鮮明に覚えています。
恐れく、生まれたての4歳の弟の面倒を、姉も私も忘れていたのでは。。。
母はそんな姉と私に対し、怒り狂って棒を振り回し、メチャクチャに叩きにきたのです。
私は姉の後ろで逃げ回っていたので、その分姉が犠牲になったのを鮮明に記憶しています。


今気づいたのですが、なぜかそのころ1つ上の姉とのその頃の思い出がありません。
決して中が悪かったのではないのですが。
ただ、姉の性格は大人しく、頭が良かったのを覚えています。
その姉はあまり家を出なかったので、やはり一緒に遊んだ記憶はないのは、そのせいかも。



初めての大阪 泉佐野市での生活は、私が幼稚園を卒園するまでの2年から3年までの
短い期間でしたが、良い思い出はほとんど無かったように思います。


次回は、次の大阪の地での生活を。