athome-hidenoriのブログ

自分の人生のありのまま綴り、自分が育ったふるさとへの思いを綴り、今の自分の思いを素直に綴ります。

大阪第2のふるさと

大阪で、最初の過ごした泉佐野市をあとにして、
大阪第2のふるさと 岸和田市へ引っ越ししました。理由は父の勤め先からはやや遠くなるのですが、家族の生活環境を考慮しての引っ越しだったとのことでした。




場所は春木町で、春木団地というところで、5建てのアパートがいくつも並ぶ団地でした。
移り住んだ頃、何棟もある同じアパートが並んでいるので、幼い私はよく迷子になりました。ただ、姉はいつも迷わず家に帰っていましたので、姉は普通に立派でした。


団地の中には、遊ぶための広場があり、団地の横にはショッピングセンターもあり、慣れれば、家族が生活するには全く不自由は無かったように思います。
幼心にも、春木町はとにかくエネルギッシュな地域だったと、今も記憶に残っています。
中でも、だんじり祭がはじまると、街の賑わいは凄く、人、人、人の人だらけで、祭りが始まると、その活気に気後れしていた私はそこには参加できず、いつも遠くで眺めているだけでした。


通った学校は春木小学校で、当時は1学年に5クラスくらいあったように記憶しています。私は結果的には、春木小学校に5年生の半ばまで通っていました。
春木町時代は、友達もそれなりにできました。


その友達と団地の広場で毎日のようにハンドベースボールをして、日が暮れるまで遊んでいました。
とにかく野球少年だった私でしたので、友達仲間からリトルリーグに誘われたのを覚えていますが、母がそれを決して許しませんでした。その母は布教活動に熱心である一方で、子供への教育にも熱心でした。


布教活動に熱心な母と、仕事一筋で真面目な父とはよく喧嘩をしていました。
父は仕事で朝から晩まで、母は布教活動で朝から晩まで。
なので、家のことは、悲惨な状況でした。


家のことは食事も結果的に子供任せとなっていました。子供にとっては、ある意味自由なのですが、世間から見れば、ほったらかし状態でした。
今でも鮮明に覚えているのは、鍋にウジ虫がわいていたのです。一見、米のように見えますが、よく見ると動くのです、ウジ虫だったのです。この光景は今も鮮明に残っています。
そんな母ですが、教育には熱心で、姉と私には、いくつかの塾に通わせていました。
4歳下の弟はというと、まだ幼いこともあり、母の背中におぶわされ、一緒に布教活動(?)していました。


その塾はといいますと、習字とそろばんでした。
姉は真面目でしたので、ちゃんと通っていましたので、確かに今も字が綺麗で、頭も良いで
す。私はというと、実はほとんど通わず、通ったふりをして、広場で友達と汗だくになって真剣に遊んでいたこともあり、私の体型は野球人としては恥ずかしくないのですが、字と頭の出来は・・・。


たまに、母が布教活動から早く帰ってきた時に、広場で夢中になって遊んでいる私のところに駆け寄ってきて、間髪入れずに「塾は?」と問われ、瞬間的に「今日は休みだよ」と、非常にわかりやすく、バレやすい嘘をついた私を連れ帰り、家でこっぴどく叱られたのを今もよく覚えています。


懲りずにその後も、ハンドベースボールに夢中だった私は塾へ行かないことが多く、親の期待を裏切った私は実に親不孝者でした。
一方、真面目で頭の良い姉は私にとっては先生のような存在でもあり、頼もしく大好きな姉でした。その大好きな姉には、辛い不幸な将来が待っていたとは、その頃の姉にも私にも想像もつきませんでした。


春木町での5年間は、他にもいろいろな思い出が残っており、次回もその思い出を綴ります。