athome-hidenoriのブログ

自分の人生のありのまま綴り、自分が育ったふるさとへの思いを綴り、今の自分の思いを素直に綴ります。

大阪第1~3のふるさと こぼれ話

実は私、小学校の4年くらいまで、「おねしょ」をしていました。
私には子供が2人いますが、言えません、こんなこと。^^;



苦い思い出

大阪岸和田市春木団地は、同じような建物が規則正しく建っていて、ベランダからは
向こう正面やはす向かいがよく見えました。
なので、私が住んでいるベランダは、あちらからもよく見えたはずです。


とにかく、夜寝る前に、恐る恐る布団に入る私ですが、起きてみると、敷き布団にはいつも似たような地図が描かれていて、いつも私は飛び起きていました。「なんでやねん!」
本当にその頃の私は、毎晩寝るのを怖かっていたのを、今も覚えています。


なので、私の住んでいたベランダにはほぼ毎朝、布団が干されており、その布団には必ず地図が描かれたいたはずです。当時の近所の友達や通りがかりの人達には、よく見られていたのでしょう。実に苦い苦い思い出です。^^;


本当に不味かった思い出

大阪に住んでいた頃、もう一つ、本当に苦い思い出があります。
それは、水道の水です。これは本当に不味かった。
ある日、コップに注いだ水を父が「ほら」と見せてくれたのですが、超ビックリ。
そのコップの中の水の色は薄い薄い茶色だったのです。本当にビックリしたのを今も鮮明に覚えています。
その頃からでしょうか、今も水道水を飲む前に、私は色を確認しています。


楽しいはずの花火が、最悪の事態に

大阪岸和田市春木団地では、5階建ての3階に住んでいました。
ある日の夜、姉と私は留守番をしていた時、狭いベランダで花火で遊んでいました。
花火に火をつけ、持つところを間違えた姉は、とっさにその火のついた花火をベランダの外へそのまま投げてしまったのです。
その後、目のあった姉と私は恐る恐る下を見ると、下の階のベランダにあった何かが燃えていたのです。燃えたのは傘でした。その後、下の階の住民がすぐに気づいくれて、火はすぐに消えたようでしたので、大事には至りませんでした。
当然、下の階の住民は私たち家族に対し酷く怒ってきました、特に姉と私には。傘の弁償もさせられました。母の話では、燃えた傘より高いもので弁償したとのことでした。
(ぼったくりか?)
花火は決して、狭いベランダでしてはいけません。