athome-hidenoriのブログ

自分の人生のありのまま綴り、自分が育ったふるさとへの思いを綴り、今の自分の思いを素直に綴ります。

大阪第3のふるさと

大阪第2のふるさと 岸和田市春木町に別れを告げて、いざ大阪第3のふるさと 高石市羽衣へ

春木町の団地から11階建てマンションの11階へ引っ越しました。高層マンションであった為、私は生まれて初めてのエレベーターという乗りものに感動していました。
その頃の私には、エレベーターは遊園地の乗り物という感覚だったので、何度も何度も上から下へ、下から上へ乗って乗って乗りまくっていました。すぐに他のマンションの住民から苦情がはいり、管理人から注意を受けたのを覚えています。


マンションでの感動はまだありました。
目の前には大きな公園がありました、浜寺公園です。野球好きの私には広すぎて、投げても、売っても、走っても十分な広さでしたが、ただ一人では野球は出来ません。
公園に行っては、壁にボールをひたすら投げて、一人で遊んでいました。


その頃の私には、引っ越してきたばかりで、友達という友達がほとんど居なかったで、一人遊びも長続きせず、外で遊ぶ機会は徐々に減りました。
その後も、なかなか友達が出来ず、今思えば、あの頃からだんだん人付き合いが苦手になっていったような気がします。


そんな私を見かねて、仕事一筋の父がたまにキャッチボールに誘ってくれましたが、これも長くは続きませんでした。
とにかく、父の運動神経は「ゼロ」で、まともにキャッチボールすら出来なかったのです。


危なっかしいキャッチングをする父、ドタバタとボールを追っかける父・・・
そんな父を見かねて、私はグローブとボールをおきました。


ただ、夏は浜寺公園内にあったジャンボプールによく行きました。
ジャンボプールには、園児用、子供用、大人用などいくつかのプールがあり、とても大きかったのを覚えています。
当時、友達の居ない私は幼い弟を連れてよく一緒に遊びに行ったのですが、やはりジャンボプールは大きい分、危険が一杯でした。


今でも決して忘れられないシーンを鮮明に覚えています。
ある日のこと、いつものように子供用のプールで弟と遊んでいました。当然、弟には子供用のプールでも水深が深いので、浮き輪を使っていたのですが、振り返るとその弟の姿が消えていたのです。弟の浮き輪しかなかったのです。もし、その時私があわててその場から離れ、まわりを探しに行っていたら、弟は間違いなく大変なことになっていたと思います。
あの瞬間を思い出すと、今でも体が震えてきます。


その弟は、実は私の足元の水の中で、一生懸命犬かきをしていたのです。
それに気づいた私はすぐに抱き上げました。弟は私にしがみつき、ずいぶん水を飲んだのか、苦しそうにしていて、その後、ようやく落ち着いた瞬間、驚いて泣きだした弟と、私も一緒になって大泣きしていたのを、今もよく覚えています。今思い出すと、今も泣けてきます。本当に危なかった瞬間でした。
「本当にごめんな」、でもすぐに見つかってよかった、本当によかった。


大阪第3のふるさと、高石市羽衣では、途中から羽衣小学校5年生として学校に通うことになりましたが、なかなか学校生活に馴染めませんでした。
学校に馴染めず、友達の居ない私は、徐々に母の布教活動に参加する機会が増えていきました。次回は、その活動について綴ります。